制服のスカートと、恥の可能性

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 先日、「見えない支配」というテーマを持って某大学のAO入試を受験し、哲学科の合格を頂きました。その中で、面接試験では以下のような質問をされました。

「あなた自身も、自分が見えない支配を受けていると感じているの?」

 恐らく、これが最も核心に迫る質問でした。質問を受けて即、これは自分によりアクチュアルな話題にするべきなんだ、と考えると、直感的に「制服」というワードが浮かびました。 

「制服に自分を何かを支配され、何かを規定されている。」

 直感的に思いついたアイデアだったため、充分にまとめることが出来ず、面接終了後からやけにこれが頭に残っています。なので、本記事でこれを少しまとめてみます。

 まず、私の個人的な体験を紹介させてください。やけに記憶に残っている出来事です。

 中学校1年生で、入学後すぐの時期に、女子生徒と女性の先生だけの集会がありました。生徒たちは床に座り、先生が話し出すのを待っています。そして、前に出てくるなり開口一番に先生が言ったこと。

「みんなパンツ見えてますよ。」

 思いがけず衝撃的な先生の発言にどっと湧き、笑いが止まらない12歳の少女たちと、至って真顔の先生。この凄まじい温度差を鮮明に覚えている。記憶だと、この集会の目的は学校内での生理の対処の仕方を説明することだったはずなのですが、そんなことはもう忘れました。覚えているのは、その後です。

「みんなは、慣れてないから今は難しいと思うけど、これからは女の子として見えないように気をつけなきゃね。3年生はみんな、ちゃんと座れているよ。」

 今考えると、これも「規定」の1つだったと思います。スカートを強制されることで、「ある行動をすると、下着が見えてしまう」という「恥の可能性」が常に付き纏うことになる。これは、制服を着た状態ではその「ある行動」の可能性を女の子から奪うことに他ならないのではないでしょうか。例えば、リラックスした体勢でいるとか、走るとか、運動するとか。制服を着せられ、「恥」という罰を近くに置いておくことで、行動の可能性を削ぎ取られてゆく。こうして、「女の子の動作」が作られてゆくのかもしれません。

 もっとも、中学2年までは友人同士でスカートをめくり合う遊びが流行っていたので、あくまでも行動を変える第一の要因はスカートでは無いのでしょうが。