【第1話】中高一貫校を卒業したので、6年間を回想します。

28日の昼、友人から驚きのLINEが届きました。

明日が卒業式になるという突然の知らせです。そうか、政府の例の発表の影響か...。

そして、センチな回想をすることもなく次の日になり、いつまでも日常のように登校し、教室にいた訳です。

 


集団感染予防で、HRクラスだけで行われた卒業式は、むしろ良かったと思います。

誰だか全く知らない大勢が、次々生産ラインの如く証書を渡され続ける退屈な景色が無いのは幸いでした。

 


時間割が終了し、先生方や友人と会って騒ぐなり写真を撮るなりし、結局は1人でバスに乗って帰りました。Twitterを開き、やっぱり慶應文学部に合格したかったなどといつまでも未練がましいツイートをし、景色を眺めることも忘れていました。

そうして、この学校での6年間は閉じたのでした。

 


それから既に1日経ったのですが、1つの日常が消えた自覚があまりにも無い。

ので、こういう記事を書いて6年の日々が過ぎたことを知ろうとしてみます。

 

※先に書きますが、恐らくすごく長い文章になります。覚悟してください。


2014年4月。中学生1年生である。

 


初めて乗った、自宅から学校の最寄駅までのバスが大幅に遅れ、入学式への遅刻が確定し半泣きで母親と口論をした記憶があります。ああ、初日からこんな失敗をしたのではもう学校生活は終わりだ……などと絶望を募らせながら、校歌斉唱の聞こえる体育館へとぼとぼ歩きました。このようにして、私の長い6年間が始まった。

 


恐らく入学後1週間以内でしょう、HRクラスで担任の先生がレクを開いてくれました。

この先生については、高校を卒業した今、今後の人生で二度と縁が無いだろうと確信しているので紹介しましょう。国語科の、若い男性の先生で、並外れて達筆な字から、物静かで真面目な雰囲気がありました。

レクの中で、私はヤンチャな男の子と同盟か何かを組んで、楽しんでいました。小学生の時の私は、殆ど男の子の友達ばかりでしたから、今後は彼と仲良く出来るだろうと思いました。

結局その後、見えない意識の中に中学生のヒエラルキー形成され、彼はその頂点の者となり、最下層の私は二度と無縁だったのですが。

 


さて、中学1年生は、私にとって最も暗い時代の1つだったと言えます。「自分が並外れた秀才である」という自意識を守ることに必死でした。

 


つまり、努力もせずいつまでも自惚れていました。最初の中間試験で殆ど最下位の点数を取ると、呼び出され、担任の先生と面談をすることになりました。

先生は私に、優しく尋ねました。

「君は入試の成績はとても良かったのに、一体どうしてしまったの。」

前半部分が、あまりにも私の耳に心地良かった。私は何と返したか。

 


「私は誰よりも大人びた考えを持ち、誰よりも頭が良い。この学校は騒ぐことしか知らない猿が多すぎる。そもそも、この学校のレベルが私に合ってない。小学校の頃の友人は、県内トップの進学校に行ったし、私だってそのくらいの頭脳があるんだ。だから、この学校の勉強には飽き飽きして、やる気にならない。」

 


要約するとこうでしょう。大馬鹿者です。これほどの馬鹿はなかなかお目にかかれない。

結局、この後中学3年になるまで、歴史でクラス1位を取る他には全て最下位に近い点数でした。

 


しかし、ここで読者の方にお尋ねしたいですが、なせ私が「私は秀才だ」などと言いながら、何も努力をしなかったのかわかりますか。

 


それは、自分自身を支える大きな物語を守るためです。中学生になって、自意識が強くなると、自分とは何かという問いに敏感になりました。私にとって、その答えは「秀才であること」でした。なぜなら、小学生までの私は常に何かしらで受賞していたから…。他の人よりも特別頭が良いはずだから…。

体育館の中で、大勢が床に座る中で1人立ち上がり、段上で校長先生から賞状を手渡され、拍手を浴びることが、私にとっての普通でした。卒業文集には、子供の字で早稲田大学の文学部に進んで学者になるとまで宣言していました。私にとって、自分とか何かという問いの答えは、「秀才であること」の他にあり得ませんでした。秀才であること故に私であり、秀才でなければ、それは自分自身への存在否定へとなり得ました。しかし、そこで、「秀才であること」を守るなら、尚更熱心に勉強するのが普通だろう、思われるかもしれませんが、それは私にとっては間違いです。なぜなら、私は熱心に勉強した上で、秀才になれないことに怯えていました。熱心に勉強して、もしも優秀な結果を出せなかったら…。そうなると、私が秀才であるという「可能性が消えてしまう」と考えていました。逆に、熱心に勉強をしなければ、自分は「やる気になれば」秀才であるという「可能性を残す」ことが出来たのです。このようにして、私は、努力をしないことで、自分が秀才であるという可能性を守っていました。当時の私は、テストの点数がほとんど最下位であるにも関わらず、自分が秀才であることには一切の疑いを持っていなかったのです。

 


しかし、当然ながら、内部でこのような理屈を捏ねて自分を守っていたところで、他人にはそれはわかりませんから、私は私にとっては「不当な」、周囲にとっては「妥当な」扱いを受け続けました。特別に課題の量や、授業数を増やされるなどです。私は、整合的かつ矛盾した自己防衛の中で、いつまでも虚勢を張っていました。暗い日々でした。それが、中学1年生です。

また余談ですが、先の当時の担任の先生は、私のような扱いに困る生徒たちの対応に心を病んで、学校を去ってしまいました。

 

 

 

次に、2年生の回想をします。

春頃から、学校を休むことが多くなりました。朝に、人間のように目を覚ますことが出来なくなったからです。眠る私は、母に揺さぶられ、大声で呼びかけられ、頭から水をかけられても目を覚まさなくなりました。それは、眠っているというより、意識という土の下に眠るゾンビの姿…。少し意識が回復したとしても、それは人間としての目覚めではなく、自我を半分欠いたゾンビ…のような、とにかく、まともに人間として生活出来る姿ではなくなりました。ゾンビはいつまでも人間になれなかったものですから、学校に行くことのハードルが、ただでさえモチベーションなど無かったのに、普通の人の何倍も跳ね上がってしまいました。これは、規律性調節障害という、自律神経の病気らしいです。1年生の生活が、繊細な私の精神にあまりにも圧をかけたせいでなってしまったと言うのです。全て自分で蒔いた種だというのに、ストレスで病気になるとは立派な御身分ですよね。実は、今でもこの病気は治ってなくて困っているのですが。何にせよ、この病気のせいで、「普通の生活」を送ることが出来なくなってしまいました。

 実生活での絶望は深まるばかりでした。母は優しいので、よく色々な所に連れ回してくれましたが、私は、例えば神社とかに来た時には必ず「今年中には死ねますように。」と祈っていました。他にも、寝る前の布団の中などで常に死にたいと願っていたのは事実ですが、まぁ、願う他には特に何もしませんでした。

 このように、実生活では絶望していましたが、趣味を1番楽しんでいたのもこの時期でした。Twitterを始め、作品を公開し、画面上で人と仲良くすることにのめり込んで行きました。Twitter上であれば、自分で天才を自称しても、現実のように横槍を入れる者はいませんでしたし、周囲を自分を褒めてくれる人間で固めることも簡単でした。私は、いつまでも空虚かつ都合の良い自意識に甘え、Twitterを自分の「お城」に変えたのでした。いつまでも子供でいようとしていました。

 しかし、ここまで批判的に書きましたが、このような環境で良いこともあった訳です。この頃は、私のあらゆる趣味が爛熟した時代でした。元々私は幼少期から絵を描くことが好きだったのですが、それが転じて本当に様々なものを作りました。歌声合成ツールUTAUで自作の音源ライブラリを作ったり、AviUtlで動画を作ったり、wixで自作のサイトを作るなど…。人は、「未来への自己投資」という手段を知った途端、刹那的な遊びが出来なくなるものですが、当時の私はこの刹那的な遊びが本当に得意でした。この時に作った作品は、数えきれないほど多くありますが、今でも本当に素敵だと思って眺めます。絵に関して言えば、彩度が高いかつ明度の低いグレイッシュトーンを頻繁に使いました。あの配色の絵は今では描けなくなってしまってしまいました。私は、中学2年の自分の在り方を否定することは出来ますが、当時の作品はやはり今でも好きだと言えます。

まとめると、中学2年生は、実生活への絶望を募らせつつ、刹那的趣味として多くの作品を作り出した時期でした。

 


中学3年になると、あらゆる外因が襲いかかり、私が子供であることを辞めさせようとしてきました。

 

次回へ続く。【第2話】中高一貫校を卒業したので、6年間を回想します。 - #シュルーリレックの衒学徒