自我死んでくれ。

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 ここ数日、現実世界に生きたくなくてずっとずっとあつ森の中の虚構に住んでいたら、何も悩まずにいられました。画面の向こうにいる、意識を持たないアニメーションの連続を相手にしていると、自分の意識もその程度のものに成り下がれるものです。

ムシとり大会があった時、住民がこんなことを言っていました。

「オマエ、ずっとアミを振り回してて疲れないなんてさすがだなー!オイラはもうキンニク痛で足がパンパワだよ!」

虚しさを感じるセリフです。実在するのは、寝ながらSwitchを操作する私であって、画面の向こうで忙しく走り回るキャラクターには何の知覚もありません。このことを再認識させられました。

しかし、いくら走り回っても…走り回されても…いつまでも平気でいられるアニメーションの連続は、羨ましいものですね。

 

 自我があるから、理想を思い描くことが出来ます。理想を持ついうのは、ある状況が実在しない関わらず、それを自分の意識の中にのみ存在させることです。理想なんて言うと、素敵なものに聞こえるでしょうか。しかし、理想を抱くがために、単に「あるがまま」の世界に、主観的な…主に悲観的な意味が入り込んできます。つまり、理想が存在するために、現実との間の乖離も同時に存在し、そのために世界に対して「残酷だ」などと感じるようになって悩むということです。

 世界は残酷なのでしょうか。残酷な世界は存在するのでしょうか。しないと思います。ただ、世界は残酷だ、と思う自我があるだけです。自我があるから、実在しない理想なんてものを作り上げて、勝手に世界に悲観的な意味を見出して、絶望して、悩み苦しんでしまうんですね…。

 理想を実現出来るーそうでなくても、実現するための努力で充実感を味わえる人なら、自我があっても良いでしょう。理想と現実の差があっても、それを埋める見通しが持ち続けられるうちは、世界はさほど残酷ではないからです。  

 問題は、不幸にも理想と現実の差を埋める見通しが持てなくなってしまった人です。(私ですね。)常にその圧倒的な差について考え、愕然とし、無力感に襲われ、こんな筈ではないと思いながら日々を過ごす可哀想な人…。

 日々の内容はさほど問題ではありません。私の日々が、誰かにとっての理想であることもあり得ましょうが、そんなことは私にとって何の慰めにもなりません。他人の理想は、他人の意識の中に存在する素晴らしい世界であっても、私の意識の中では何も素晴らしくないからです。残酷な世界が、ある人の意識中にしか存在しないように、素晴らしい世界もある人の意識中にしか存在しません。そして、私はその人ではないということです。全部、自我が作り出した主観的世界の中にある喜びなり、悲しみなりですよね。

 自我のせいで、単にあるだけの世界に悲観的な意味を見いだして、絶望しながら生きてしまっています。今後も理想と掛け離れた日々を送るでしょうが、その際もずっと遠い理想を持ち続けて、悩み続けているのでしょうか。幸せになれる気がしません。死んでやろうとは全く思いませんが、世界に悲観的なフィルターをかける自我には死んでほしいと思っています。

 

 ところで、たびたび思うことなのですが。自分は他人にとってはどうでもいい他人でしかないのに、そんな無意味な自分のために沢山悩んでいる自分が愚かしくて仕方がなく思えます。毎日自分のことで深刻に悩んでいるのに、この悩みは、自分という全く個別に世界へ意味をなさない無意味な存在にとってしか深刻ではない。他人にとってはどうでも良いこと。なんだか、馬鹿馬鹿しく思て仕方がありませんね。