生きてる‼️

人生に絶望したみたいな記事の後に更新が長期で途絶えてるので、自殺した人みたいになっちゃってましたね。生きてます。しかも元気に生きてますよ。

何があって回復して、今何をしていて、どこに向かっているのかーは、まだ整理がつく段階ではないので秘密にしておきますが。

何にせよ、死んでないのでどうかご安心ください。

あと、一つ文章でまとめておきたいことを昨夜考えてたので、また何か読み応えのある記事を作る…かも…しれないです。断言は出来ませんが。

自我死んでくれ。

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 ここ数日、現実世界に生きたくなくてずっとずっとあつ森の中の虚構に住んでいたら、何も悩まずにいられました。画面の向こうにいる、意識を持たないアニメーションの連続を相手にしていると、自分の意識もその程度のものに成り下がれるものです。

ムシとり大会があった時、住民がこんなことを言っていました。

「オマエ、ずっとアミを振り回してて疲れないなんてさすがだなー!オイラはもうキンニク痛で足がパンパワだよ!」

虚しさを感じるセリフです。実在するのは、寝ながらSwitchを操作する私であって、画面の向こうで忙しく走り回るキャラクターには何の知覚もありません。このことを再認識させられました。

しかし、いくら走り回っても…走り回されても…いつまでも平気でいられるアニメーションの連続は、羨ましいものですね。

 

 自我があるから、理想を思い描くことが出来ます。理想を持ついうのは、ある状況が実在しない関わらず、それを自分の意識の中にのみ存在させることです。理想なんて言うと、素敵なものに聞こえるでしょうか。しかし、理想を抱くがために、単に「あるがまま」の世界に、主観的な…主に悲観的な意味が入り込んできます。つまり、理想が存在するために、現実との間の乖離も同時に存在し、そのために世界に対して「残酷だ」などと感じるようになって悩むということです。

 世界は残酷なのでしょうか。残酷な世界は存在するのでしょうか。しないと思います。ただ、世界は残酷だ、と思う自我があるだけです。自我があるから、実在しない理想なんてものを作り上げて、勝手に世界に悲観的な意味を見出して、絶望して、悩み苦しんでしまうんですね…。

 理想を実現出来るーそうでなくても、実現するための努力で充実感を味わえる人なら、自我があっても良いでしょう。理想と現実の差があっても、それを埋める見通しが持ち続けられるうちは、世界はさほど残酷ではないからです。  

 問題は、不幸にも理想と現実の差を埋める見通しが持てなくなってしまった人です。(私ですね。)常にその圧倒的な差について考え、愕然とし、無力感に襲われ、こんな筈ではないと思いながら日々を過ごす可哀想な人…。

 日々の内容はさほど問題ではありません。私の日々が、誰かにとっての理想であることもあり得ましょうが、そんなことは私にとって何の慰めにもなりません。他人の理想は、他人の意識の中に存在する素晴らしい世界であっても、私の意識の中では何も素晴らしくないからです。残酷な世界が、ある人の意識中にしか存在しないように、素晴らしい世界もある人の意識中にしか存在しません。そして、私はその人ではないということです。全部、自我が作り出した主観的世界の中にある喜びなり、悲しみなりですよね。

 自我のせいで、単にあるだけの世界に悲観的な意味を見いだして、絶望しながら生きてしまっています。今後も理想と掛け離れた日々を送るでしょうが、その際もずっと遠い理想を持ち続けて、悩み続けているのでしょうか。幸せになれる気がしません。死んでやろうとは全く思いませんが、世界に悲観的なフィルターをかける自我には死んでほしいと思っています。

 

 ところで、たびたび思うことなのですが。自分は他人にとってはどうでもいい他人でしかないのに、そんな無意味な自分のために沢山悩んでいる自分が愚かしくて仕方がなく思えます。毎日自分のことで深刻に悩んでいるのに、この悩みは、自分という全く個別に世界へ意味をなさない無意味な存在にとってしか深刻ではない。他人にとってはどうでも良いこと。なんだか、馬鹿馬鹿しく思て仕方がありませんね。

病める謙虚(学歴コンプの症例)

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→謙虚になろうという気持ちが溢れすぎたばかりに、他者にも謙虚でいて欲しくて堪らなくなる。

私自身の、一般全落ちを経て、AO合格した大学への進学が確定し発症した瞬間(2月)から、今(6月)までの症状の経過を説明する記事。


 全落ちした直後の日々3月は、以下のようなことを呪文の如く何度もツイートし、何度も話していました。

(謙虚になろう。自分は今まで何て自分を過大評価していたのか…。本当は、大学受験もロクにこなせない能無しだったというのに。学歴コンプで自分の大学を貶す人々がいるけど、そんなこと出来たもんじゃないな。

なぜかって、あれの根底には、他の学生よりも自分の方が知的に優れているという優越感があるわけですよね。そんな優越感持てたものじゃない。なんせ、私は世間一般にアホと呼ばれしAO入学者なので…。

…謙虚になろう。今まで傲慢すぎるくらい傲慢だったんだから、これからは謙虚すぎるくらい謙虚になろう。自分はこの大学の中の他の誰よりも頭が悪いんだと、そう思い込んで生活するようにしよう…。)

 先に断っておきましょう。私は全落ち以前までは、AO入試こそ最も優れた人間を入学させる入試形式だと思っていた節があるので、それが「世間一般にアホと呼ばれしAO入学者」という言葉を使うようになる高低差は清々しいですね。ただ、これは本当に全てのAO入学者がアホだと思ったのではなく、自分が他者より劣った存在であると思い込むための根拠に、世間によくある偏見を無理矢理持ち出した感が強いです。

 それはさておき。とにかく、謙虚になろうと強く思ったわけです。そんな思いを抱きつつ、他の新入生たちと交流するためにTwitterのアカウントを新規で作ったのでした。


 そして、大学垢のFFもまあまあ増え、タイムラインが賑わって来た4月、私は無限に苛立っていました。

(衒学者が多すぎる!この人間共、とりあえず哲学者の名前を引用しておけば知的に見せれると思っているのでは?!カント…キルケゴールニーチェ…等々、もうこの名前を何度見たことか……そんなにアレコレ引用して、君たちは本当に、それほど高飛車な態度で語れるまで彼らを理解出来ているのか?!とりあえず引用すればサマになるって理由で、自分の断片的な知識をむやみにひけらかしているのではないのか?!)

 苛立つ理由は他にもいくらでもあったのですが、割愛します。なぜなら、この記事でするべきことは彼らの批判ではなく、当時の自分の態度を批判的に考え直すことだからです。


 上に書いた苛立ちの中では、「衒学者」という言葉がキーワードです。これは「自分の知っている知識をむやみにひけらかす人」を刺す皮肉で、だいたい私は「知識をファッションにして優越感に浸る芋っぽい人」くらいの意味で使います。とにかく、私はあらゆる他の新入生を衒学者呼ばわりしたわけです。

 しかし、この展開はおかしいですよね。なんで謙虚になろうと思ったのに、他の人のことを皮肉っぽく衒学者と呼ぶんだ?謙虚になったなら、他者を以前より尊敬出来る人になるはずなのでは?


 ここで発見されたのが、病める謙虚の症状です。つまり、謙虚になろうという気持ちが溢れすぎたばかりに、他者にも謙虚でいて欲しくて堪らなくなるということです。

言い換えれば、多少なりとも自尊心を持たなければ、他者を尊敬出来なくなる、ということになります。

 更に具体的に考えます。謙虚になろう、と強く決意することは、まず自己否定から始まる試みです。あらゆる自己否定から自分を卑下し、実力に見合わない言動は今後慎もうとします。しかし問題は、この「あらゆる自己否定」にあるのです。つまり、自分の言動を振り返り、それら全てが間違っていたと思い込むことを頑張りすぎると、少しでも自分と似た要素を持つ他人まで全て認められなくなります。簡単に言えば、同族嫌悪なのですが。自分のここがダメだ、ここもダメだ、ここも、ここも、ここも、、、、と言い続けていると、自分の中にある「ダメな人間の条件リスト」が膨大に膨れ上がり、項目が増えれば増えるほど、自分以外の人にもそれが当て嵌まってしまう、ということです。これでは、自分を卑下するだけして、他者を尊敬することなどまるで出来ない状態と言えましょう。だから「病める謙虚」と呼びました。


 ところで、少し前に、自尊心が落ちてて自分について考えることに意義を見出せないのでブログの更新が滞ってる…みたいな投稿をしました。今回の記事では、その自尊心が落ちてる様子の分析を試み、それなり客観的に自分を見ようと努めましたが、残念ながら自尊心自体は全く回復してません。そんなうちに、とうとう自分のことを「有象無象の一般人」とまで呼べるようになってきてしまいました。最近、「何も為さずに死んでゆく」という言葉が何度も浮かびます。

 

更新が滞っている

すみません 最近自尊心がないので、自分という人間についてわざわざ長い時間かけて考えて、文章を作るのに意義が見出せてません 回復したらまた更新するのでよろしくお願いします 

【第3話】中高一貫校を卒業したので、6年間を回想します。

【第1話】中高一貫校を卒業したので、6年間を回想します。 - #シュルーリレックの衒学徒

【第2話】中高一貫校を卒業したので、6年間を回想します。 - #シュルーリレックの衒学徒

     次の転機は、秋のことでした。それは、私が学校に対して激しく憤り、自分が学校の中でどのような「分際」だったのか、正面から突き付けられた事件でした。私は学校に反抗し、それは無残に打ち砕かれました。

 当時、私は毎日嫌々ながらも課題をこなすことで、国語と英語の学力は回復することが出来ていました。それどころか、国語は上位者になりました。これが、例の「私は優秀だから、やれば出来る」という大きな物語を大いに補強したのは言うまでもありません。しかし、理科と数学は依然として苦手なままだったので、この辺りからわたしの自称する「優秀さ」は、文系科目に限定されていきます。(社会科は元々得意でした。)

 ただ、とにかくも、依然として特に数学は極度に苦手だったために、「先行き不安」な生徒リストには留まっていました。学校は、時に融通が効きません。そのリストは、基準を下回る成績の有無だけで構成されました。一科目でも基準を下回れば、なぜか国数英三科目の課題が大量に課されたのです。私は、国語も社会では「優秀」であるはずであるのに、数学が極度に出来ないせいでいつまでも全般的なバカとして扱われました。

 理不尽です。私は、あくまでも国語と社会では優秀になれていました。それは成績が保証しています。にも関わらず、数学の成績だけを見て、全科目が出来ない者として扱われるのはおかしい。感情として不快でした。「いや、数学が出来てないんだから、優秀とは言えないだろ。」と思いますか。それなら、数学に特化して課題を出せば良いのです。大量にある国語の課題のせいで、苦手な数学の課題に使う時間が減ってしまうのでは、全科目で点を取らせる、という学校側の目的も本末転倒でしょう。

 更に、国語の課題を自己採点をして、満点で提出したために、ある先生「答え写してるんじゃないですか?」などと疑いをかけられることすらあったのです。嫌々ながらも真面目に課題をこなしていたのに、何だ、この言い様は。私を最初からバカだと決め込んでいるのか。失礼にも程がある。

 完全に腹を立てたので、学校に反抗してやろうと思いました。国語の課題は全部無視して、咎められれば「順位を見てください?なんなら今ここで問題出してくれてもいいんですよ笑」くらい言うつもりだったのです。

 しかし、結論から言えば通用しませんでした。私は、「自分は国語の成績は優秀なんだから、課題を毎日課されるのは理不尽。それをやる時間で、苦手な数学の勉強をした方が良い。」という、合理的なはずの理由を持って、課題をやらないという反抗をしました。けれども、学校にとってそんなことはどうでも良かったらしいのです。とにかく、出された課題に従わない生徒がいるのが問題でした。やはり、勉強とは「子供を拘束し、自由な行動を奪った上で画一的な人間の生産を目指し、個性を潰すために課される社会的プロセス」だったのです。(※2話参照)  その意味で、私は単に「不従順な者」として扱われました。先行き不安な生徒リストから抜け出すことも出来ません。課題は、全科目で更に増やされました。同級生には、「あいつまだ課題出されてんの笑」と冷ややかな目線を向けられました。国語と社会では、彼らよりも私の方が遥かに点を取っていたのに!あまりの悔しさに、夜な夜な涙を流しながら、Twitterの鍵垢で迫真のお怒り表明をしていました。

 さて、この件で私が得たことは、現代文の読み方とか、英文法とか、数学の解法などでは全くありませんでした。学校は、私の話など聞く気がまるでないということ、ただそれだけです。とにかく、私がやるべきことに従っていなかった点で、発言に耳を傾けてやる意義など見出されなかったのでしょう。或いは、聞く前からバカな中学生の戯言として決め込まれていたのかもしれません。

 私が、国語の課題をやらないという反抗をした時、国語科で若い女性の先生に責め立てられました。やらない理由なんて問題ではないのです。課題をやらないから、悪いのです。私はごく普通に泣きました。先生に怒られて、自分の主張をそもそも聞いてもらえないので、悔しくて泣いていました。放課後の職員室の端で、泣いていてろくに話も出来なくなっている私の前には、しかめっ面や先生が1人いて、横を何人もの先生たちが何事もなく通り過ぎてゆきました。廊下からは、楽しそうに騒ぐ生徒たちの声が響き、吹奏楽部の軽快な演奏も聞こえていました。学校の中で、惨めに震えながら泣いているのは私だけだったのです。あの時の孤独感といったら、凄まじかったです。

 しかし、そんな時に、「おいおいどうしたんだい」と、同じく国語科で年配の女性の先生が私に声をかけてくださりました。S先生としましょう。私は、S先生と関わったことは一度もありませんでしたが、友人がこの先生を絶賛することはよく知っていました。授業がわかりやすいとか、優しいだとか。それ故、私はこの先生に救いを見出しました。それまで私を叱っていた先生は、言い分を全く聞いてくれなかったけど、S先生なら受け止めてくれるかもしれない。そう思い、私は声を詰まらせながらも、一生懸命に事情を説明しました。S先生は、「うんうん」と、相槌を打って、話を聞いてくれている素振りを見せたので、私はいくぶん安心しました。それで、自分の気持ちのより深い部分まで吐き出してしまったのです。

 それは、自分の創作活動についてでした。前記事でも書いたよう、当時の私は創作活動をしていました。表現することが、人をその人たらしめる手段だと信じていました。私にとって絵を描くことは、私が私であるための大切な行為だったのです。しかし、大量の課題は、その時間を容赦なく奪い取ってゆきました。先生たちは、勉強することは善であると、当然の如く言うけど、私にはそれがよくわからない。私にとっての勉強は、そんなに良いものには思えない…。泣いていたので、容量を得ていなかったかもしれませんが、大体こういう旨のことを話したはずです。初めて関わった先生にここまで言ってしまったのは、泣いていて気持ちが昂っていたのもありますが、友人たちの評価から、S先生を信頼していたのがありました。それに、国語の先生なんだから、文学なんだから、わかるでしょ、とも思っていました。

 S先生は言いました。「うーん、なるほどね…。」

「うんうん、悔しいと。」

(そう、私は悔しいんだよな…。)

「勉強が出来ないのが。」

(えっ?)

 S先生は、私の健気な説明を、このように要約したのです。私は、勉強が出来なくて、同級生に見下されているから、悔しくて泣いていると。

 この人は、一体何を聞いていたのでしょうか?確かに、私は泣いていたから、わかりやすい話はしていなかったでしょう。しかし、この時の私は、S先生が要約したようなことは全く思っていませんでした。ですから、どんなに私の話がわかりづらかったとしても、こういう要約になる筈がありません。そもそも、要素が無いのですから。

 私は、更に泣きました。失望と、再び襲ってきた孤独感に泣いたのです。 

S先生は、私を慰めました。

「うんうん、辛いよな。じゃあさ、課題やらなきゃいけないよね?」

 S先生は、泣きじゃくる私の背中をさすってくださりました。

 この人は、態度としては他の先生よりも遥かに優しかったです。しかし、結局私の話を聞いていないという意味では、全く同じでした。

どうせ、私は「勉強が出来ない生徒」として処理され、私の話は、そこから勝手に連想されるストーリーとしてしか解釈されなかったということです。誰も、私が本当に言いたいことなど聞こうとしていませんでした。

 このエピソードは、今日に至るまででも、特に悲しかった出来事として残っています。もう、こんな学校にいたくないと強く思いました。そもそも、この中学の先にある高校に入るために課題をこなしているわけだけど、その高校だってこういう世界なんじゃないの?それなら行きたくなんかない。今からでも、別の高校…美術系とか、定時制とか、通信制とか、そっちを探した方が良いのかもしれない…。そんなことを考えていたのが、中3の秋です。

続く

 

【最新版】自己紹介2020春

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まえがき

「自己紹介」とは、人が自分とは何者であるかを他者に説明する行為です。それをするためには、自身の意識の中を探り、自分の意識にとって不可分に思われる要素を発見する必要があります。

「意識」は流動的です。境遇に応じて、何を思うかは絶えず変化します。

自己紹介は、流動的である意識を参照して語られる訳ですから、自己紹介の内容が変化することも不思議ではありません。

前回私が書いた自己紹介は、2019年12月のものです。↓【旧記事】自己紹介 - #シュルーリレックの衒学徒

さほど過去でもないように思われるかもしれませんが、当時と今では既に決定的な違いがあります。

それは、大学受験の「惨敗」、そしてその後襲いかかる、無能感と自己肯定の葛藤、そして絶望を乗り越えていこうとする健気な努力を経験しているか否か…。3月は煩悶するのに忙しかったです。(それの経過も今度まとめます。)

そして4月になりました。

ある程度気持ちの整理もつき、自分の意識を探る気になれたので、そろそろ新しい「自己紹介」を書き直してみても良いと思いました。

また、自己紹介にあたって必要な、「自分の意識にとって不可分に思われる要素」は、自分はこれはその人の境遇だと考えています。ですので、これに焦点を当てた説明となります。

境遇

高2春から早稲田大学を目指して本気で受験勉強を始めたのに、高3になったら慶應SFCの自由な雰囲気に魅せられ、友達と議論するのに夢中になり、万能感に駆られ論文執筆などをしていたら「勉強」することを忘れ、大学受験大失敗しました。

惨めな私に唯一合格を出してくれた入試が、國學院AO入試です。(文学部哲学科)

浪人とか仮面は、今後この大学に深く絶望させられるとかいうことでも無ければしません。(ないと思います)

関心

怒涛の「不合格」を突きつけられる前、万能感に駆られていた時には、ベンヤミン複製技術論の「アウラ」や、いわゆるエコーチェンバー現象を手掛かりに現代のを「陶酔」を研究しようと意気込んでいました。

しかし、無知な高校生の研究構想など持続するはずがありません。 今は、まずは大学でしっかり学び、必要な教養を身につけた上でまた色々と考えてみよう、と思っています。

具体的には、語学(英語・仏語)、と包括的な哲学への素養、また、文系が苦手とする数学的思考、情報系の技術などです。

自論ですが、人文学を趣味ではなく、研究としてやるためには語学力が不可欠だと考えます。そのため、これを一番重視しています。

 

(とか言って、君センター英語何点だったの?)(うわああやめてくれ 理想を語るわりに実力が乏しい私は、この手の批判を前にしては「恥を晒してごめんなさい」「恥ずかしいので私の自我を抜いてください」しか言えなくなります)

 

2020春の自己紹介は以上です。